QEUR23_LLMDSS3: 世界平和のためのデータセット開発の考え方
~ 目標は「ノーベル平和賞」!! ~
D先生 : “最近は、ブログによるプロジェクト進捗の報告頻度がずいぶん少なくなりました。でも、い・・・、いいんですよ、それで・・・。目標に「ブレ」がなければ・・・。”
QEU:FOUNDER : “今は面白くって、ブログ報告どころじゃないって感じです。目標といえば、最近は少しずれちゃったかな。現在の目標は「世界平和」です。”
D先生 : “は?”
QEU:FOUNDER : “お恥ずかしながら、プロジェクトの作業の中で知らないことがたくさん出てくるんです。それが逆に面白くって・・・。D先生、この話(↓)を知ってた?”
(title) コンゴ自由国
(original) (joutai) コンゴ自由国(フランス語:État indépendant du Congo、Kongo-Vrijstaat)は、かつてアフリカのザイール川流域に存在した国である。国と称しているが、実態はベルギー国王レオポルド2世の私領地であった。植民地時代を経て、のちにコンゴ共和国(後のコンゴ民主共和国)として独立を果たした。 ベルギー国王レオポルド2世はスタンリーにザイール川流域を探検させる。国王の支援による探検だったためその成果は国王に帰属し、国王は1882年に「コンゴ国際協会」に委託支配させ、1885年のベルリン会議では公式に国王の私領地になった。 国王の私領となったコンゴ自由国では耕作地も全てが国王の所有となり、住民は象牙やゴムの採集を強制された。規定の量に到達できないと手足を切断するという残虐な刑罰が容赦なく科され、前代未聞の圧制と搾取が行われていた。コンゴ自由国の自由国とは、「住民が自由な国」という意味ではなく、自由貿易の国という意味の英語(Congo Free State)であり、公用語であるフランス語における正式国号はコンゴ独立国であった。 当時は多かれ少なかれ抑圧的な植民地政策が行われていた欧米列強各国からも、人道主義の立場に基づく非難が殺到した。特にイギリスは領事に実態調査を行わせている。またジャーナリストのエドモンド・モレルが「赤いゴム」という著作で、手足を切り落とす過酷な刑罰の下でのゴム採集の実情を白日のもとにさらけ出した。 国際社会の非難の声はますます高まり、国王の恣意的な暴政にベルギー政府も黙っていられなくなった。1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定し、国王はベルギー政府からの補償金と引き換えにコンゴ自由国を手放すことになった。 同年11月、コンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになった。これにより統治の実情は多少なりとも改善され、初等教育の導入などが行われた。 コンゴ自由国を圧政により支配したレオポルド2世への批判は、21世紀も続いている。2020年6月、アメリカ合衆国で発生した反人種差別デモがベルギーに波及した際には、アントワープ市内にあったレオポルド2世の像が襲撃を受け、放火された上に塗料が掛けられていたため、市によって撤去されている。
(summary) (joutai) コンゴ自由国は、かつてアフリカのザイール川流域に存在した国で、実態はベルギー国王レオポルド2世の私領地であった。ベルギー国王レオポルド2世はスタンリーにザイール川流域を探検させ、その成果は国王に帰属し、1885年のベルリン会議では公式に国王の私領地になった。国王の私領となったコンゴ自由国では耕作地も全てが国王の所有となり、住民は象牙やゴムの採集を強制され、規定の量に到達できないと手足を切断するという残虐な刑罰が容赦なく科された。当時は多かれ少なかれ抑圧的な植民地政策が行われていた欧米列強各国からも、人道主義の立場に基づく非難が殺到した。1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定し、国王はベルギー政府からの補償金と引き換えにコンゴ自由国を手放すことになり、同年11月、コンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになった。これにより統治の実情は多少なりとも改善され、初等教育の導入などが行われた。
D先生 : “なんじゃ、この話は・・・。もう、無茶苦茶じゃないか・・・。”
QEU:FOUNDER : “最近、「なんとかセブン」という集まりがあったじゃない?小生はこの話を知っているから、もうねぇ・・・。お腹が痛くって・・・。そういえば、あのとき北から変な人がきたんでしょ?”
(title) クリミア・ハン国
(original) (joutai) クリミア・ハン国(1441年頃 - 1783年)はジョチ・ウルスの後継国家のひとつで、クリミア半島を中心に存在した国家。首都はバフチサライ。 クリミア・ハン国の支配下でクリミア半島にはテュルク諸語の一種を話すムスリム(イスラム教徒)の住民が多く居住するようになった。彼らの子孫が現在クリミアで少数民族となっているクリミア・タタール人である。 クリミア・ハン国は15世紀中頃に、クリミア半島にいたチンギス・ハーン後裔の王族、ハージー1世ギレイによって建国された。ペルシア語、テュルク語などで編纂された16世紀前後の系譜資料によれば、ハージー・ギレイの先祖は、チンギス・ハーンの長男ジョチの13男であるトカ・テムルに遡る。「集史」などのほぼ同時代の情報によれば、トカ・テムルはジョチ・ウルスの東部を統括していた兄オルダのもとにいたとみられるが、その子孫の一派はクリミアにいたらしく、13世紀後半にモンケ・テムル・ハンによってクリミア半島の支配権を認められたと伝承されている。 明らかな歴史では、クリミアは1238年にモンゴル帝国のバトゥの遠征軍によって最終的に征服され(モンゴルのルーシ侵攻)、ジョチ・ウルスの元では右翼の一派として、ソルハット(現スタールイ・クリム)を中心として、ジョチ・ウルスに属するテュルク・モンゴル系の集団(のちにタタールと呼ばれる人々)の主要な居住地のひとつとなった。14世紀後半、バトゥ家および東方のオルダ家の断絶にともなってジョチ・ウルスが混乱すると、特に右翼ではハンを称する者が乱立し、クリミアは次第にジョチ・ウルスの中心都市サライを支配するハンから自立するようになった。 貨幣史料からは、バシ・テムル(Bash Timur)なる人物がクリミアで自らの名を刻んだ貨幣を鋳造していたことが明らかになっている。1394年から1395年にかけて、ティムール朝およびシャイバーニー朝で編纂された系譜史料によれば、彼はこの頃のサライのハンであったトクタミシュの再従兄弟であり、かつのちにサライのハンを経てカザン・ハン国を建国したウルグ・ムハンマドの叔父にあたるとされる。いずれにせよ、イスラム社会では、貨幣に自らの名を刻むことは主権の宣言を意味し、この頃クリミアのタタールがサライのハンから相当程度独立していたことがわかる。
(original) (joutai) クリミア・ハン国は、1441年頃から1783年にかけて存在した国家で、バフチサライを首都としていた。この国の支配下で、クリミア半島にはムスリムの住民が多く住むようになり、彼らの子孫が現在のクリミア・タタール人として知られている。この国の創設者は、ハージー1世ギレイであり、彼はチンギス・ハーンの長男ジョチの13男トカ・テムルを祖先とする一族とされている。クリミアは1238年にモンゴルのバトゥに征服され、以降、クリミア半島はジョチ・ウルスに属するテュルク・モンゴル系の人々の居住地のひとつとなった。グダン・カン、トクタミシュなどのハンがクリミアを支配し、クリミアのタタールが主権を行使するようになり、バシ・テムルなどが自らの名を刻んだ貨幣を作ることでクリミア・タタール人の独立性が表明された。
D先生 : “えっ!?あそこって、イスラム文化なの?”
QEU:FOUNDER : “歴史的にはね。だから、帰属の正当性を歴史的な観点から議論しちゃうと変なことが起きちゃうんです。”
(title) リトアニア大公国
(original) (joutai) リトアニア大公国は13世紀から1795年のあいだにベラルーシを中心とした地域を支配した国家である。全盛期には、広大な領土を擁するヨーロッパの強国であった。この国家の支配層の民族構成は人口においてはリトアニア人はむしろ少数派で、特にルーシ人と呼ばれる東スラヴ人が多かった。このルーシ人は、のちのベラルーシ人やウクライナ人の先祖に当たり、やがてリトアニア人とあわせてリトアニア人(と呼ばれるようになった。 リトアニア人が支配した当初はその領土もいわゆる「原リトアニア」と呼ばれる、現代のリトアニア共和国とほぼ同じ狭い地域に限られており、非キリスト教国家であったが、複雑な政治的経緯により人口の膨大なルーシ(現在のベラルーシ、西部ウクライナ)の正教徒の人々が住む広大な地域も徐々に広く包含するようになると、そういった地方の支配層も取り込むようになったため結果として大公国全体で徐々に正教徒の東スラヴ人が政治的に優勢となった。原リトアニアでも東スラヴの文化を広く受け入れるようになり、大公国の唯一の公用語として教会スラブ語が採用された。1387年にローマ・カトリックを正式に国教としたが、正教徒の信仰も認められた。1430年以後、ポーランド王国と実質的な同君連合(王朝連合)となり(ポーランド・リトアニア合同)、支配階層のポーランド文化への同質化が進んだ。1569年のルブリン合同をもってリトアニア大公国はポーランド王国との連合政体であるポーランド・リトアニア共和国を形成した。
(summary) (joutai) リトアニア大公国は13世紀から1795年のあいだにベラルーシを中心とした地域を支配した国家で、全盛期には広大な領土を擁するヨーロッパの強国でした。この国家の支配層の民族構成は人口においてはリトアニア人はむしろ少数派で、特にルーシ人と呼ばれる東スラヴ人が多かった。リトアニア人が支配した当初はその領土もいわゆる「原リトアニア」と呼ばれる、現代のリトアニア共和国とほぼ同じ狭い地域に限られており、非キリスト教国家であったが、複雑な政治的経緯により人口の膨大なルーシ(現在のベラルーシ、西部ウクライナ)の正教徒の人々が住む広大な地域も徐々に広く包含するようになりました。1387年にローマ・カトリックを正式に国教としましたが、正教徒の信仰も認められました。1430年以後、ポーランド王国と実質的な同君連合(王朝連合)となり(ポーランド・リトアニア合同)、1569年のルブリン合同をもってリトアニア大公国はポーランド王国との連合政体であるポーランド・リトアニア共和国を形成しました。
QEU:FOUNDER : “当初は、皆さまが「かわいそう」と言っていたあのU国、主流はリトアニア起源と見ることができます。つまり、あの国って東と西では全く別の文化なんです。”
D先生 : “そうなのか・・・。わかった!じゃあ、こうしましょう!!住民投票で決めればいいんだ!!民族自決だ!!”
QEU:FOUNDER : “それって、皆さんがお嫌いなR国がもともと言っていたことです。今回の戦争は、U国政府がU国在住のR系人にR国語を話すのを制限させたために起こったことも一因です。”
D先生 : “う~ん、なるほど・・・。”
QEU:FOUNDER : “戦争を始めた責任は何処にあるかは明確だよ。でも、もう一歩深くみると、「どっちもどっち」・・・。こういうことはAI様に聞いてみて初めてわかります。”
D先生 : “理屈としては、異なる意見(立場)の人とディスカッションするのが一番いいが、こういう話は往々にしてケンカになりますからね。”
QEU:FOUNDER : “いろいろの立場をデータにしてAIにインプットすると、AIに「立場を入力する」と、ちゃんとした理屈が出てきます。皆が、そのようなシステムを共有すると世界平和につながると思うよ。”
~ まとめ ~
QEU:FOUNDER : “このデータセットの改造が進行中です。なかなか進まないね・・・。”
C部長 : “これ日本語なんだけど・・・。Dollyって、もともとは英語コーパスじゃないの?”
QEU:FOUNDER : “とある奇特な方がディープLを使って日本語化したんです。そこら辺の話はあとにしましょう。今回、話をしたいのはコレ(↓)!!”
C部長 : “以前、FOUDERも言ってました。LLMって学習データが良いとパフォーマンスが上がるって・・・。そういえば、Dollyの15kの学習データって良質なんでしょ?”
QEU:FOUNDER : “少なくともjaは全然だめだよ。理由は、次回にゆっくり話しましょう。”
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